3月17日(火)

遊ちゃんは今日は頭が痛いようで、誰かからもらってきた、甘エビの刺身を模したこんにゃくを醤油につけて食べていた。 僕は午前はミーティングで、終えて居間に出ると、遊ちゃんが片膝をつく座り方でダイニングテーブルのところに座っていて、手にはノンアルのビールがあって、目の前のパソコンで何かを見ている、何かと聞くと仕事関係のウェビナーだそうで、その姿勢は、Netflixであるべきだろう、と私は言った。おつまみとしてさっきのこんにゃくを持っていってあげた。ノンアル、つまみ、片膝、真っ昼間のNetflix&Chillだ。

昼はうどん。食べる直前までかけうどんにすることを考えていたが、茹で上がったうどんを前にした瞬間に、今日は冷やしてざるうどんだ、という考えが稲妻のように私を貫き、その稲妻に操縦された私はうどんをザルにあげて冷やしているのだった。

今日もポモドーロな感じで働いて、新料金のポスターをつくったり、メニューをつくったりして、快調に仕事が消化されていった。 早めにスーパーに行き、今日はしゃぶしゃぶサラダにすることにした、遊ちゃんがブロッコリースプラウトを指して、しゃぶしゃぶサラダにブロッコリースプラウトも使うといい、と話した。 「そうだ」と僕はいった。そしてブロッコリースプラウトをカゴに入れて、たしかに上にたっぷり散らしたらいいアクセントになりそうな気がした。それで、バイクを漕いで、ここのところすっかり週1になってしまっていたが、やはり2日は漕ぎたい、2日漕ぐためには火曜らへんで漕いでおきたい、それで漕いで、リヴァプールとトッテナムの後半で、リヴァプールは攻めあぐねていた。30分漕ぐと風呂に入り、とはいえこのまま終わるのだろう、トッテナムの窮地は続く、と思っていたらぽーんと蹴られたボールにリシャルリソンがうまく合わせてそしてうまく蹴って、土壇場でトッテナムが追いついた。リシャルリソンは手で顔をがっしりと掴むようなポーズで、長い時間スタンドを見つめた、リシャルリソンは好きな選手だ、生真面目そうでいい。それで試合はドローに終わってリヴァプールは情けない試合だった。風呂から上がると仕事を再開して、今週は新料金系の入稿系、クーポンの制作と入稿系、動画制作の段取り決め、出版社タイムラインの段取り決め、そこらへんが進めるべき仕事で、今日で新料金の入稿系の多くが済んだので、あとは明日以降でいいというところでClaude Codeを育てる時間にすることにして、まずは下準備で作業スペースの整理からやった。Readsのディレクトリを正しい場所に移したり、旧バージョンのフヅクエのウェブサイトのディレクトリを削除したり。その中にはんぞーが昔手がけたプロダクトの、中身は何もなかったらしいが、何かがあり、2016年とかのものっぽいことがわかり、2016年、と思った。

済むとCLAUDE.mdをつくることがしきりに勧められていたので、つくり、僕は誰なのか、フヅクエはどんな店なのか、Readsはどんなサービスなのか、そういうのを伝えたわけだが、そのときに早くもClaude Codeのよさが感じられるというか、僕が説明するよりも、それこそウェブサイトを見てもらったらフヅクエの十分な説明になるわけで、そのコードは見られるところにあるわけで、そうしてもらったら、よくわかってくれた。これは、いい予感がする瞬間だった。

豚肉、キャベツ、玉ねぎ、ブロッコリー、人参、ブロッコリースプラウトの豚しゃぶ温サラダ、こんにゃくとともにもらった野沢菜漬けっぽい見た目の漬物、カクテキ、小松菜としいたけの味噌汁。

マンチェスター・ユナイテッドとアストン・ヴィラの試合を見ながら食べて、あらゆる食べ物がおいしかった。 食事を終えると試しに僕のタスクを把握してもらう状態にすることを始めて、MCPを先日試したときに数万レコードあるタスクのデータベースを扱わせるのは大変だと感じた、数万あるし、プロパティも50とかはある、それが私たちのタスクデータベースで、その話をするとたしかにそれはしんどさがある、必要な情報だけGASでシートに出す方式にして、Claude Codeはそれを読む方式がいいかもしれないと言われ、やはりそのアプローチなのですねと思って進めようとすると、さっきはそう言ったが、もう少し考えてみたら、GASを噛ませる必要はないかもしれない、SDKを直接叩く、そういうスクリプトをつくってローカルファイルとしてそれを出して私たちはそれを読む、それがいいのかもしれないと言い、知らないやり方だったので、やってもらって、そうするとできて、最初は所要時間が長かったが、何かを調整していったら問題のない時間まで短縮することができて、まだ調整することはいろいろありそうだが、こういうことができる、ということはわかった。

3時半になった。布団入り、しおりの挟まったところを開くが既視感があって、どこまで読んだっけ、と探す時間が6割、と思うが、そうやりながら再読をしていくことで浸透していくものがあるというか、初めて認識できることがたくさんある。日記を書きながら、引用する部分を読み返しているときとか、書き写しているときとかに、こんなことが書かれていたのか、と何度もなる。フォークナーはむしろ、フォークナーというかこの作品は、読み返したときに初めてつくられるような気すらする。初読でできるのは、うっすらとした、肌から浮かんで見える筋とか骨とかくらいで、もう一度読んでそこに血肉がつけられていくような、そんな感じがある。以下の箇所もきっと、そうなるのだろう。

あいつはおれにそれをいう機会さえ与えなかった、といい、それは考えというにはあまりにも素早く、あまりにも混乱しており、いわば一気に自分をどなりつけ、黒んぼの笑い声みたいに自分の上にどっと降りかかり、 あいつはおれにそれをいう機会さえ与えなかったし、とうちゃんはおれがあいつに話したかどうか聞きもしなかったのだから、あいつはとうちゃんがあいつのところになにかことづけを送ったことも知ることができず、だからあいつがそれを受け取ろうと受け取るまいと問題にはならず、とうちゃんにとっても問題にはならないだろう。おれはあのドアのところまで行ったんだが、あの黒んぼはおれに二度と表の戸口に来るんじゃないといっただけだから、おれはそれを伝えることであいつの役に立たなかったばかりか、それを伝えないことであいつに損害を与えることにもならず、つまりおれは、この世においてはあいつに対して役に立つことも損害を与えることもできないっていうわけだ。

ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!(下)』(高橋正雄訳、講談社)p.37

やっぱり何が言われてるのかわからなかった。

3月18日(水) ↓