2月8日(日)

起きたら糸数さんから通知が来ていて、1on1だったのをすっぽかしてしまった。週末にミーティングを入れることが滅多にないので、抜けていた、というかカレンダーに入れ忘れていた、ごめんなさいだ、外は雪で、しっかりと積もっていて、まだ降ってもいた。遊ちゃんは午前中には家を出ていて、今日は選挙に行き、どこかに行き、ネイルに行き、それから職場の集まりの用事に行き、とエネルギッシュな予定で、そんなに出歩いて、足を滑らせないといいのですが、と僕は心配していた。

夕方までこつこつと仕事をして、道路が凍結する前に買い物を済ませてしまおうと思って外に出ると、向こうの空は薄っすらと夕焼けで、道は凍るどころか濡れてすらおらず、とは言えあの通りに出れば日陰で、と思っていた道もすっかり乾いていて、予期していたものとまるで違った。寒さはくっきりとあって、気持ちのいい冷たさだった。スーパーに行くと太刀魚の刺身と大根とかを買った。風呂を沸かし、入り、サッカーを見る時間も、サッカーを止めて考え事をする時間もあった。 夜は開発でフィルターの保存を実装していき、やればやるほど気にするポイントというのは新たに生じていくもので、無数の判断が生じていくもので、網羅的に物事を進めることは弱いが、こうするとこうなっちゃう、こうしたほうが気持ちいい、みたいなことを考えていくことは僕は好きで、いくらでも出てくる、終わらない、なんとか終えたくらいで遊ちゃんが帰ってきて、集まりの話を聞いて、ニュースを開いてみると自民党が300議席とかを取っていて、こんなふうになるのだなあ、と思う。僕は言葉が大切な人間だから、他者と言葉でやり取りしようと努めない政治家たちは軽蔑する以外できない。言葉が蔑ろにされる世界は僕はただただ悲しい。その感じの勢いがつくのだろうと思うと悲しいし怖い。それは些細なことだと言う人は、目の前の人が、事実を確認しようとしても答えを逸らす、誤ったことを言ってもそのまま放置する、決して間違いを認めない、そういう人だとしてもなんの問題もない、そういう人とでも一緒にいられる、そういう人とでも一緒に仕事をできる、という考えを持っているということなのだろうか。そう問うても、そんなこと言ったら他党の政治家だって、と、正面から応じず、すり替える。ちょっとでも緊張感を持たせるため、という投票があるというのは理解しづらいことなのだろうか。投票とは当選する人を当てるゲームであり、当選する人に入れられたら勝ち、みたいな感覚の人も多いのだろうか。

大きな流れの中のひとつの現れでしかないだろうが今井絵理子が「批判なき政治」と言ったのはけっこうエポックだったとずっと思っていて批判という本来はフラットな言葉が非難と積極的に混同された、あらゆる批判が難癖として無効化されていく時代にどんどんなっていった。

議論がしたいし、議論が見たい。わかりあえることをわかりあえた瞬間も好きだけど、ここは決してわかりあえないねとわかりあえた瞬間も同じくらい好き。むしろそっちのほうが感動する。そのためには互いに言葉を尽くすことが必要だ。そういう時間や機会が徹底的に軽視されていく感じは本当に怖いし居心地が悪い。

でもそれが居心地が悪い人もたくさんいるのだろうというのは容易に想像できる。言葉のやり取りなんて、言い負かされるだけだ、自分が損をするだけだ、これまでそういうことしか起こらなかった、議論なんてしたくないし見たくもない、そういう人はたくさんいるだろう。

そもそも、今回の選挙の開票が始まる前にというか昨日の時点で把握しているつもりだったのよりも牛皿的なやつは量が多く残っていて、第二の主菜みたいな感じで刺身を買ってきたが、だから太刀魚の刺身、じっくりと蒸して柔らかくした大根のステーキみたいなやつ、キャベツと長ネギの味噌汁、キムチを並べていくとけっこうなボリュームになって、夕飯はクリスタル・パレスとブライトンの試合を見ながらで、鎌田復帰かと楽しみにしていたが、先発にはいなかった。中盤で試合をコントロールする鎌田の姿を早く見たい、と思いながら夕飯を食べて、鎌田は次のシーズンはどこにいるのだろうか、と思いながら夕飯を食べて、食べ終えるともうしばらく働き、Cursorは淡々としているが、最近は思考過程も表示されるようになって、薄い文字でばーっと流れて、それはキャッチできない、すぐに流れてしまうのだが、ときどき「I see!」とか、そういう言葉が目に入って、どうやら内省は明るくやっているらしく、その感じ、こっちにももう少し出してくれても、僕は歓迎だよ、と思って、黒いモニターの上を走る文字を追い、夜中、それから、バックエンドのデプロイだけ済ませてしまうことにして、一週間前に障害を起こした身として緊張感があって、慎重に、ドキドキしながら、iPhoneとAndroidそれぞれで、問題が起きていないか見ながら、デプロイしていき、無事済んで、ひとつほっとして、今日の仕事を終えた。布団に入った。医者を家に呼んで、母を診てもらう。

親父は夕闇の中でベッドの上に屈みこんでいる。背を丸くした親父の影絵が、ふくろうじみて見える。羽もゆがみ、やり場のない不満をいだきながら、あまりに深刻すぎるか、不活潑すぎて、思想の体をなさぬ知恵を内にひめているといった、ふくろうみたいだ。 「くそっ、あいつらめ」親父はいう。 ウィリアム・フォ-クナー『死の床に横たわりて』(佐伯彰一訳、講談社)p.55

時間が今どこなのか、たちまちわからなくなったかも、なんだっけ、何が起きているんだっけ、と思っていると、次のパラグラフは唐突に斜体で

ジュエル、俺はいう。頭上では、太陽も灰色の槍のように飛んでゆく雲に隠され、日は平べったい灰色に過ぎ去ってゆく。雨のなかでは、らばは、泥をいっぱいはね上げ、汗の湯気を立て、右側の馬は、突き進んでは足を滑らせ、溝の上の道路の側面にやっと踏み止まる。 同前 p.55

と続いて、このパラグラフが終わるとまた元の父親たちのいる部屋に戻って、そのパラグラフ間に空白行はなくて、異なる時間が断りなく流れこんで、いいぞ、いいいい、オー、ヤー、あの小さな(リトル)―ああ―来るぞ、来る来る、あのかわいい(リトル)―AHH― フォークナー! という気分。

2月9日(月) ↓