2月25日(水)

雨だった――(雨は朝降り始めた)――そう、雨は朝降り始めた。私が眠っているとき調布の街に雨が降り始め、起きたときにはすでに――(そうすでに)――すでに降っていて――(まるでずうっと降っているかのような雨だった)――そうまるでずうっと降っているような降り方で地面を濡らし空気を湿らせていた。 私はいくつかの仕事を済ませると昼食を取って家を出て、遊ちゃんはそれよりも先に家を出ていた。分倍河原、立川と電車に乗ってモノレールの立川北駅の改札内で遊ちゃんと落ち合うと改札内のセブンでふたりはコーヒーを買って、改札の手前にもセブンがあったから立川北駅にはふたつのセブンがあるということだった。今回は正しいホーム――(それは上北台行きだ)――そう上北台行きのホームに出て、妙に細く異様に長く見えるモノレールに乗り込むとガラスは雨でべたっと濡れて曇っていた。ひと駅はすぐで降りると人が多く降りたので、みんな調停かな、みんな調停かな、と僕は遊ちゃんに――階段を歩きながら僕は遊ちゃんにそう言った――そうだ階段を下りながらだ。階段を下りながら僕は遊ちゃんにそう話し、すると遊ちゃんの同僚も最近調停通いをする、まさに今日が調停の日だとかで、にわかに私たちの周囲に調停ブームが到来したかのようだった。 前回はずいぶん遠回りで歩いたが、今日は正しい道を選択することができて、そうすると裁判所はすぐだった。今回も、記念写真をふたりは撮った――「裁判所」と彫られた御影石の前でだ――そう「裁判所」と彫られた御影石の前でふたりは写真を撮って――満面の笑みで――そうだ、満面の笑みでだった。その笑顔は、予定よりもひとつ早い電車に乗り、前回と異なり正しい行き先の電車に乗り、前回と異なり正しい道を選び、それによって生じる児戯めいた喜びが立川のこの空を切り取る四角い建物とその中でしおらしい顔をして座る特定の人々を圧倒する力を持つと無理に信じこもうとせずとも信じられるものだと思っている者特有の誇りと隠し難い苛立ちを表しているようだった。

今の僕たちの結論としては管理費の増加分1100円の家賃増額は受け入れる。以上です、と私は言った。 増額の根拠として僕たちには消費者物価指数の上昇と近傍同種の家賃相場、そして管理費および修繕積立金が僕らが入居してから8000円ほど上がっているということが提示されましたが近傍同種物件相場を拝見したところ僕たちはほぼ築50年の物件ですが同じ街で築2年の物件が提示されていると思いますが僕たちはオートロックもないですしお風呂の追い焚きもないですしエアコンが設置できない部屋もあるとか、これは物件としての大きな弱さがあると思います、僕たちにとってはすごくラブリーな好きな物件ではあるのですが単純に説得の材料として築2年の最新設備の物件がいくらで築50年で設備に弱点のある物件がいくらというのは単純に比較にならない、今の資料では単純に説得していただけていない、という状況です、と私は言った。 他にも提示されている物件は資料にもありますがやはりどれと比較してもそこに経年による価値の低下分を加味していきますと今の家賃がかなり妥当に思える資料になっていますので、ここについて、本当に同じような条件でどうなっているというのを提示していただけたら話は変わると思うのですが現時点ではそれでは上げましょうと言える根拠を与えていただいていないというところです、と私は言った。 今日は調停員がひとり増えていて石破茂を彷彿させる方だったので僕は当初脳内で「石破さん」と呼びそれからは「ゲル」と呼んでいたが、残りの2人は前回と同じで話をよく聞きよく整理してくださる弁護士さんと、遊ちゃんが「おじ」と呼ぶ傲慢な話し方をする老年男性で「おじ」のアクセントは「お」についている。その「おじ」が今日も自由なトークをしてきて管理費という項目は賃貸物件に入るものであっておたくの物件は分譲賃貸だから管理費の増加を認めるというのは無理で管理費増加分の増額を認めるというのだったら言えると、長く話し、僕も遊ちゃんも名目はなんでもいい、名目の話は今はしていないんですよと、何度か言わないといけなくて世話の焼ける人だった。しかし1100円では向こうも飲まないだろう、固定資産税の上昇もあるだろう、そういう話が出ると私はやはりこちらがいろいろなことを善意で飲み込んでそうですねまあみんな大変だし上げましょうと言うのは平和な交渉あってこそだと思うんです。ここまでそれが一切なされなかった以上は提示された資料を読んで解釈して数字の上で妥当なところを決めましょうという話しかできないんじゃないかなと思っていますと言った。和やかな調停となり、1100円では調停を起こしてきたメリットもないのでと調停委員のひとりが言うと、一同であっはっはと笑った。僕たちは退室して申立人たちのターンになって1100円ということが伝えられた。相手方の待合室は今日は前回よりも人が多くてひっきりなしに人が出入りした。みんな申し立てられている。 再び僕たちのターンになって話を聞くと、この調停に至る過程として僕たちは2万円増額や1万円増額を断ってきたというものが言われたそうで僕は僕らは2万円を断ったわけでも1万円を断ったわけでもなくその前の話をさせてくださいというので今日と先月のがあると言い、向こうは僕たちを家賃増額をゴネ続ける借主という役割に収めたいらしい。本当にどこまでも卑劣で不真面目で事実や言葉に対して不真面目であるというのは世界に対して不真面目であるということだ。恥を知れとShame on youはニュアンスというか恥のかかせかたのアプローチがまったく異なっていて面白い。恥を知れは恥というものが――とても気の毒なことにあなたはその概念を知らないまま暮らしてきてしまったのでしょうが――この世にはありましてね、そういうものがありますので、そういうものがあるということを、どうでしょう、ひとつ学んでみては、という、相手の存在をこき下ろすかなり挑発的なものでShame on youは恥の概念は自明でそれが今お前のお腹のところにべたっと犬の糞みたいにくっついていると伝える直接的な感じがある。 話のわかる市民派弁護士さんはしかし、調停というのはどこかで着地点を探すものだ、そろそろ見つけていかないといけない、という話をしてきて、僕はこれに違和感を覚えたがうまく言語化できないで、僕たちとしても平和的な話し合いをしたい、お互いの考えをテーブルに持ち寄って適切な結論を導きたいと思っている、というか、ずっとそれは、僕たちはやろうとしていた、それこそをやろうとしていた、僕たちこそがコミュニケーションの努力をしてきた、というのがまずある、と私は話し、向こうは何を言っても僕らが応えてくれないみたいに見えているのかもしれない、5万出した2万出した1万出した、それが全部断られたように見えているのかもしれないですが僕らはまずその話に乗っていなかった、その前の話をしたかった、それをずうっと言ってきた、今日の話でひとつだけだが初めて反省の姿勢を示していただけた、やっとスタートに立てたっていうことなんですよね、だから、ここがゼロっていう感じなんですよね、と私は話し、僕たちは今まで一度も金額についてゴネたわけではない、僕たちは金額の話はしていない、と私は話し、なんの話をしたかったんだっけな、と言葉に詰まった。ここで僕が言いたくて言えなかったことは調停が3回目に持ち越されることがまるで僕たちの姿勢のせいであるかのようだが僕たちからしたらこれが0回目の調停だということだった。だからゼロという言葉が出てきた。本来であれば今この地点は家賃増額調停に至る前に至れた地点でありそこに至る努力を怠ってきたのはもっぱら向こうであるということだった。しかしそれはその時には言葉にならず、言葉にならない言葉は調停では記録されようがないのだった――そう、言葉にならない言葉は調停では記録されようがない、人は誰も他人にエスパーの役割を期待してはいけない、私はまったく別の話と合流させてそのように考え、言葉にされていないことは言葉にされていないからと、前に友人が言っていた、そのこともまた思い出すわけだった。そのあと第1ラウンドでも出てきてそこでも応えていた駐輪場使用料の支払いについて改めて意向確認がされ、私は、 「申立人たちはまだ駐輪場の話してんのかよ! この貴重な調停の時間を使って! 400円の駐輪場の話を何度も!」 と考えて、噴飯するかと思ったが、幸い、口の中に飯は入っていなかった。調停は終わり、次回は4月上旬に設定されて、4月という数字の鮮烈さに僕も遊ちゃんもびっくりした。外に出ると雨は弱まっていて、帰りはモノレールで高幡不動まで出て、それから京王線というルートを採用して、言葉の通じない他者と相対することの悲しさ寂しさについて遊ちゃんと話しながら帰った。

帰ると疲れてしまった。早々に風呂に入った。上がるとふと、近傍同種の建物の比較表をつくりたくなり、甲第5号証として出された物件を表にしていった。それから僕が見つけた他の駅だが家賃相場同等の駅の甲第5号証記載のよりもずっと条件が近い物件も表に足して、AIと話しながら、平米単価を出し、統計局が平成30年に出している「借家家賃の経年変化について」に基づいて物件価格が年率1%下がる、その減価を加味した家賃を出し、減価後の平米単価を出し、それから広ければ平米単価は逓減することを学んだのでそれで補正した値を出して、いくつかのグラフにしてみると僕はほとほと困惑してしまった。 データは、家賃増額の正当性を語らないどころか、現在の賃料は現在でも十分に高値であり、むしろ4年前の貸し出し時に設定された賃料は分不相応に高額だったとさえ語るからだった。減価の率を保守的な0・8%にしてみてさえそうだった。本件物件よりも設備が充実した、築年数もやや浅い物件の賃料が2万も安い。ひとつだけ減価後の家賃が本件物件よりわずかに高くなる物件があってこれこそが希望かと思って飛びついたら100平米超えの物件で、高くなるのは当然すぎることだった。このなだらかになめらかに正しく描かれた曲線の中で、すでにして浮いている青い点を、さらに赤い点にまで浮上させるためにはどんなロジックが必要なんだろうか、と頭を抱えてしまった。比較物件群よりも設備の劣後するこの物件を、さらに高い位置にプロットするためには、どうしたらいいのか…… チャッちゃんが、「あなたは今、感情ではなく構造で遊んでいる。楽しいでしょう?」と言った。僕は破顔した。

しめ鯖、昨日の豚肉と白菜と長ネギ、ぺらぺら人参、キャベツのコールスロー、ほうれん草とえのきの味噌汁

それからやっと仕事に戻ってくれて、本当に、調停は生活を邪魔してくるものだ。損害賠償だ! もう夜中だ。大急ぎでわあっと仕事をやっていき、2時半に送られてくる問い合わせ返信、3時に送られてくるクラウドサインの契約書、それはどんなふうに受け取られるだろうか。 4時ごろ布団に入り、今日で一段フォークナーのギアが入ったというか読書のギアが入った感じで今はどうやらクェンティンの父が夜のポーチで語っているみたいで、サトペンがやってきて、みんなで半裸で家を建てて、フランス人の建築家だけがきちんとした服を着て監督して、という様子を見ていたら、シムシティとかの面白みなのだろうか、物語が広がるような感じ、時間が流れ始める感じがあって、ぐっと面白くなってきた。

2月26日(木) ↓