3月5日(木)

数日前にこの土曜日に遊ちゃんが華南子ちゃんと高尾山温泉か麻布に行くと訊いた瞬間に僕も高尾山温泉に行きたくなって、その気分は続いていて、行くなら明日だった、明示的に休日とする今年初めての日になるか、それともやっぱりこれを進めたい、というか今週これはやらなければならない、となって働くか、見ものだし、今のところフィフティーフィフティーという予感だ。

午前中は佐藤くんとミーティングし、仕事の進め方についていろいろ相談で、タスクは個人に課せられた宿題じゃなくて店として進めるべき何かで、それを一緒に見、一緒にやっていく、みたいにできるといいよねと話し、僕は、共に働くみたいなスキルがとても低いように思う、培っていきたいものだ。約束について考える。 終えるとお粥をつくることにしてブロッコリーをゆっくり炒め、水とニンニクと鶏ガラを入れて煮立て、米。それで35分。その時間は35分分の仕事をして、できると食べてすこぶるおいしかった。ブロッコリーのお粥はお粥のなかでも特においしい気がする。

3時ごろ家を出て郵便局で住民税を支払い、初台に。ドトールに行き、ラジオを書いていたら今日がReadsの一周年の日であることがわかり、まだ一年なのかと驚く。一年になるところであることはわかっていたが、あの混乱の日々はずっとずっと遠い出来事である気がする。リリースの日とその翌日の日記を読んでいたら感動して、これはつまらない自尊心の補給みたいな感じがあるが、はんぞーが「俺が浅かった」と言ってふたりで大笑いする場面は、読むたびに涙ぐんだ。きっとここまで、心細かったのだろう。まだないものを一人で見るというのは、心細さとともにあることだ。一人で信じて、一人で突き進んで、信じながら、突き進みながら、心細かったのだろう。それはとても健全な心細さでもあるのかもしれない、ある前から誰もがそれは絶対いいねと思えてしまうものなんて、たかが知れているのかもしれない、形になって初めて、こういうことだったのかとわかるものでないと、なんにもならないのかもしれない。

店行き、糸数さん以外の人間がいなかった。それで家から持ってきたプルドポークを出してサンドイッチをつくってふたりで試食して、プルドポークはもっと多いほうがいいのかも。 約束のできなさについてあれこれと糸数さんと話し、お客さんがやっとあって、しかしこの夜に来られたお客さんはひとりだけだった。もう終わりなんだろうか、フヅクエはすっかり見放されたのだろうか、と思わせられる数日とか一週間とかというのはこの10年の中で何度も何度も何度も見てきたもので、何度だって新鮮に不安に感じて、新鮮に不安に感じ続けることに意味があるというか、意味はないかもしれない、そこに正しい予測が置かれ、予測との差分の中で冷静に考えるのが正しいあり方なのかもしれない、でもやっぱり意味はあるのかもしれない、ちゃんと不安になることでこそ駆動するものはあるだろう、これは半分は正しいが半分は嘘である気もする、これまでは、ただ不安のまま過ごして、なんとなく不安が消えるという時間しか過ごしてこなかった気がする、怠惰であってはいけない、閉店するとビールを飲んだ。

帰り道、正しい、間違えることのない、そして誰にも響かない、誰をも癒やさない言葉と、そうじゃない言葉について考えていると、伊藤計劃の『ハーモニー』を久しぶりに読みたいような気持ちになった。それは昏い気持ちだった。ラーメンをこしらえた。

3月6日(金) ↓