3月21日(土)

遊ちゃんは東京に行き、恵比寿に行き、それから東京に行くとか言っていたのだったか、なんだか変な移動ということだけ把握したが、夢うつつのまま、いってらっしゃいと言い、僕は何時に家を出たらよかったのか改めて調べ、2時10分とかの新幹線で、1時とかの電車に乗ればよさそうだったので、11時半まで寝た。起きると蕎麦を茹でて、結局2束茹でて、ネギを刻んで、蕎麦にネギはマストという学習がされてきた、食べて、2束はやっぱり多かった。 家を出て家を出た旨を遊ちゃんに伝えると遊ちゃんからご飯は食べたか問われたので食べたと伝え、それから、うどんは2束でちょうどいいが蕎麦だと多い、ということを伝えた。おなかぽんぽこりん、と僕は送った。ぽんぽこりんという言葉を発明した人は誰なのだろうか、素晴らしい言葉だ。

あたたかで、セブンで買ったアイスコーヒーを飲みながら駅に行き、思っていたのよりひとつ早い電車に乗れた、連休中日の昼の電車はそこそこ混んでいて、新宿で中央線のところに行くと時間が表示されていない、20分遅れ、30分遅れ、みたいなものだけ表示されていて、そうかと思いながらホームに上がり、他の選択肢としては丸ノ内線という手もあるみたいだった。どうしようかと思っていると、その20分遅れた電車がやってきたので、僕にとっては何ら遅れではない電車だった。新宿から東京というのは不思議と遠いというか、遅い感覚がある。四谷、御茶ノ水、神田、東京、何か抜かしているかも、なんだか、のろのろしている感覚がある。 東京で降りると何も考えずに手近な階段に吸い込まれて下りていった、狭い通路で、見慣れない狭い、壁の近い、天井の低い通路で、もたもたと行進するように私たちは歩き、どこか悪いところに連れて行かれるような、そういう雰囲気があった。出たのは丸の内北口の改札前で、それがどういうところなのかは僕はよくわかっておらず、遊ちゃんに、いま僕はここにいる、と送った。地図の写真も送ったが、楽天モバイルが負けたらしく、いつまでもsendingでくるくるしていた。しかし遊ちゃんは近くだったみたいで、合流できた。電車に乗るまでに、すごく背の高い人をふたり見た。

新幹線は空いていた。走り出すと「トランヴェール」を少しめくり、それから遊ちゃんがどこだかでもらってきた料理研究家の手によるおにぎりというものをいただいて、それはたしかにすごく美味しくて、高菜みたいなやつ、鮭、ごま、新生姜、昆布、何か緑色のやつ、そういうのがとてもよく調和した、そういうおにぎりで、おいしくて、それからClaude Codeについての質疑応答をしながら窓の外を見ていると荒川より少し前のところで、三角屋根の、巨大な、のっぺりとした、倉庫のような、異彩を放つものがあって、地図とかストリートビューとかでひとしきり調べたが何かはわからなかった。DNPの何かとか、読売新聞とかの何かとか、何かしら印刷系の工場とかが集まっているエリアであることが知れた。 那須塩原はいくらかひんやりとはしていたが寒いということもなく、21分着とかだったが遊ちゃんが誤って30分着と伝えていたらしく、しかし30分着なんて電車はない、これは21分なんじゃないのか、いやそれともと、ひとしきり家が賑わったかもしれないねと言いながら外に出て、ロータリーのほうを見下ろすと、青い車があって、青い車があるねと言うと、遊ちゃんは、青い車どころか、あそこを歩いてくるのはお母さんだ、と言って、見るとたしかにそれは母で、僕たちは手を振った。 とても久しぶりの帰省になって、車には父がいて、今日は姪っ子たちも3連休ということで来ているが迎えの車にはいない。今日はどこかに出かけるつもりだったが午後オンラインで塾の保護者会があることが知れてどこにも出られなくなった、姪っ子は今は小3とかで、塾に通い始めたそうだ、新体操と絵画教室に行っていて、そこに塾が加わったそうだ、親はゆるっとした塾を考えていたが、姪っ子が気に入って選んだのは早稲田アカデミーとかだったそうで、楽しいのだそうだ。甥っ子は年中さんとかで、1年前に九九とかをやっていたので、今頃は微分積分でもやっているのだろうか、それはしていないようだが、お姉ちゃんと一緒に何かのドリルを解いたりはしているそうで、今の甥っ子の夢は一番頭のいい学校に行くことなんだそうだ、灘か開成とかということだそうで、そんな話を聞いてから家に入るとたくさんの遊び道具で散らかった部屋があってそこでふたりで熱心に工作とかをして、それから透明探偵ごっこを始めて透明だと宣言して、うろうろして、こちょこちょしてきたりしたから、安心しますね、とみんなが話した。黙々と微分積分をやっていたらどうしようと思っていたからだ。

コーヒーをいただいてひと息ついて、遊ちゃんと姪っ子が一緒につくるものを検討し、リストアップができると甥っ子も誘って4人で百均に行って、姪っ子が、歩いている途中で、私をコントロールして、と突然言った。何かと思ったら、指示通りに動くから指示を出すようにということだったそうで、右に曲がってもらったり、足踏みしてもらったりしてから、大股でまっすぐ歩いてもらった。彼女は大股でまっすぐ歩いて、甥っ子もそれに倣って大股で、大きく腕を振って歩いて、僕もその後ろから、大股で、大きく腕を振って歩いた。 百均でいろいろ買い、スーパーで片栗粉とかを買い、太陽がぶよっと赤くなって落ちていくのを見ながら家に帰ると、姪っ子は遊ちゃんとテープ風船とかで何かをつくり始め、甥っ子と僕はハンドクラフトなやつの投石器を一緒につくり始めた。ハンドクラフトなやつは僕が面白そうで、投石器と恐竜のふたつを買ってきていた。なかなか難しく、甥っ子が図を見ながらがんばった、どうしても難しいところは僕にここやってと依頼をしてきて、困ったら人に頼ることができるというのは、素敵なことだった。無事に投石器ができて、よく引っ張って手を離すと、木でできた石がすごい速さで飛んでいって、窓にコツンと、強めに当たった。これは強力だ。 そうしていると夜になり、博道さんもやってきて、それで晩ご飯で、今日は焼き肉がメインということで、肉が並べられた。他には鯵のなめろう、イカのなめろう、キュウリとウドの酢の物、きんぴら、いろいろあり、どれもおいしかった。ビールを飲んで日本酒を飲んで、食事が終わるとウボンゴというゲームが始まって、とても難しかった。テトリスみたいな形の、いくつかの色のパズルピースを、定められた形にする、その速さを競う、そういうやつで、何度やっても正解を導き出すのが難しく、子どもたちは速かった。どうにか正解にたどり着いた瞬間は気持ちがよく、しかしなかなかコツが見つけられず、疲れるゲームだった、姉はずいぶん好きらしく、張り切ってやっていた。それからみんなでケーキを食べた。

日本酒で酔っ払ったようで、こたつに入って仰向けになっていると眠っていて、そのあいだに博道さんは帰り、他の人たちは順番にお風呂に入っていった。起きると遊ちゃんが風呂に入っているところで、ぼんやりとスマホではてブを見ていたらAI時代の若手の成長みたいなタイトルの記事が見えて、AI時代の成長とか学習、AI時代の見習いのあり方みたいなことについては僕もちょうど最近考えたりしていたところで興味のある話というか、想像ができないがゆえに興味が強くある、おもしろトピックという感じがあった。これまでだったら若手に任せていたような仕事をどんどんAIが代替していくみたいなときに、どうやって人は経験を積んで成長をしていくのか、みたいなことだ。遊ちゃんが風呂から上がってきて、歯ブラシを持ってきたかと問われ、完全に忘れていた。 なのでコンビニに買いに行くことにして、遊ちゃんは風呂上がりなので、僕がひとりで行くことにして、外に出るとジェミちゃんにそのAI時代の見習いのあり方について問いかけ、そうすると早い段階から判断の現場に立たせるみたいなことになっていくんじゃないかみたいなことが言われて、なるほどそれはたしかにそうだ、と思うと頭がぐんぐん面白くなっていく感じがあり、たしかに、今は過渡期ゆえに求め方みたいなものが前時代のままだからおかしなことになっている気がする、それは大学のレポートとかもそうだ。やれる方法は変わったのに、問題が悪いから、ただ楽をすればいい、みたいになっちゃうというか。まずするべきことは5年後とかをちゃんと想像してみることだったのかもしれず、5年後とかには、今の机の上でおこなわれている業務の本当にかなりほとんどのところが全自動になっているだろう、いま業務に見えているものはほとんどが、組織がそもそも用意しておくべき機能みたいになっている、出力は組織がというかAIがほとんどすべてをやっていく。出力のために人が手を動かす領域は本当に小さくなる。そうなったときに人間に求められるのはもっぱら判断ということになる。であるならばいかに判断の経験をさせるかということになるというのはめちゃくちゃ自明だ。批判する力、疑問をもつ力、それをどれだけ持てるかだ。そう考えながら夜道を歩いてコンビニに行き、歯ブラシをふたつとジャスミンティーを買って、ジャスミンティーを飲みながら歩きながら、そのとき、こういう研修はどうだろうか、というのを思いついて、それは何かを読んで、気になった箇所とか心地よく思った箇所とか嫌に感じた箇所とかに線を引くとかしていく、その線を引いた箇所をAIに渡す、AIが出してきた要約を読む、その要約で自分の感じ方と合致しないところを拾う、もう一度書かせる、みたいなことを繰り返す研修。読んで何を感じましたかというのをまとめるのとかはもう人間はやらなくていい、そこでお行儀よく何かをまとめるスキルなんて必要とされない。何かを感じること、出てきたアウトプットとの齟齬をちゃんと感じること、そして道具を使って研磨していくこと、これを何度も何度もやっていくと、そこはなんか違う、みたいに思えるようになりそう。必要なのは、なにかが違うとズレを察知する、あるいは、これだ、とピンと来る、それだけになるんじゃないかと、家に帰って歯ブラシを渡すと遊ちゃんに話して、べらべらと熱心に話して、そうやって考えてみると、これから、いよいよ、本当に、インプットの重要性が高まるというか、マジで読書の時代になるんじゃないか、と考えが進み、そうならばフヅクエは、ど真ん中の存在になるんじゃないか、フヅクエの時代になるんじゃないか、みたいな考えがやってきて、受け取る体験の重要性がどんどん増していく、そのときに、それをどこよりも突き詰めた場所としてのフヅクエは、いよいよすごい存在になるんじゃないか、という考えがやってきて、だって、だってということもないけれど、今シェアラウンジでされている業務の9割はなくなる、そのとき、必要な場所はなんだ。読むことだけが残る。とにかく読むこと、没頭すること、そこで何かを感じること、それだけが必要とされる。びっくりしたな、フヅクエの時代じゃないか、と僕は高揚し、さらにそしてさっき思いついたアウトプットするのではなくて何かを感じたところだけをピックしていく読書の形というのも、Readsがそれこそ提案している姿勢とも合致している感じがあって、なんだこの一貫性は、と僕はまたびっくりして、そうやって、このときには僕も遊ちゃんも居間で、一人は壁にもたれて、一人は椅子の背に手を置いて、立ち話の格好で熱心に話していて、結局のところこうなるともう意志と欲望がなければどうにもならない、しかし、とか話していると父が下りてきて、やっぱり食洗機の設定を忘れていた、ということで、食洗機のスイッチを入れると出て行った。息子たちが真夜中に真剣な顔でしている立ち話がこんな内容だとはゆめゆめ思わないだろうと思うと可笑しい気持ちになって、しかしそうなるといよいよ、机の仕事に必要な人の数はどう考えても少なくなる、すごく苛烈だ、どうなるんだろうか、人はそのインプットと反応箇所のデータを企業に提供することで対価を得る、それが労働になる、ベーシックインカムはこういう形で実現する、みたいなことだったりして、と私は考えて、そう言い、遊ちゃんは寝室に行き、僕は風呂に入ることにした。

遊ちゃんはなぜ僕がここでこの話題でワッとなったのかすぐに気づいたそうだが僕は話し終えるまで気づかずにいてここのところClaude Codeに触れてきたことがきっかけになっていて、指摘されるまでもなく気づいてもよさそうなものだが指摘されるまで気づかないで話していたわけだが、たしかにそうで、特に昨日かおとといとかに、Readsのフィードバックの洗い出しと返信の下書きとタスクの振り分けの自動化みたいなことがきれいにできたときに感じたというか、これは一時期佐藤くんにお願いしてみたことがあったもので、これがうまくワークしなかった。当然で、開発状況やコードの状況を把握せずに手に負えることではなかった。だからこのタスクは、かつて誰かに任せたいと思っていた、しかし失敗したことのあるものだった。それが、フィードバックを読み、既存のタスクを把握し、コードベースも見に行き、過去の応答もすべて参照することのできるClaude Codeを使ったことで、そうだ、あのとき自分がほしかったアウトプットはけっこう完璧にまさにこれだったんだとなって、それが僕には鮮烈で、衝撃で、それで本当に、机の上の作業なんて本当にもう人がやるものじゃなくなるんだ、人にやらせるものじゃなくなるんだ、というのが実感されたのだろう。 そういう中でこのトピックの記事を見かけて考えがぐんぐん飛んでいっての今日だったが、それを経て、今は佐藤くんに、これまで僕がしてきた仕事の一部をいろいろやってもらうことをしつつあるが、これは大間違いだ、全部僕が引き取るべきだ、僕が引き取るというか、僕が引き取って、AIがやる状態をつくるべきだ、佐藤くんにはそういうどうせなくなる仕事ではなく、とにかく判断をさせる、その数を増やす、そのほうが絶対に面白いと思って、なのでそれならなおのこと仕事の自動化をどんどん進めないといけない、そう思ったらしく、風呂に入るとジェミちゃんに、定期実行とかで僕のタスクを把握してひとつのエージェントが指揮を取って複数のエージェントにタスクを振ってそれぞれのスキルとかでやれるところまで仕事を進めるみたいなそんなことって、Claude Codeでできますかね、と尋ねて、最初の返信はあってそれこそがまさに真骨頂ですみたいなことだったが、風呂場はWiFiが届かないみたいで、そして楽天モバイルの電波も極めて弱いみたいで、そこから話を進めることはできず、とにかく僕がやりたいことはできるようだ。やりたいと思うことはたいていなんでもできるものだからだ。朝起きてパソコンの前に座ったら多くのタスクがあとは判断を待つだけみたいな状態になったらすごくいいんじゃないかというそういうことだ。役に立たなくなったスマホを置いて、手の先までちゃんとお湯に入れたら、感じる温かさがまったく違って、段違いで、手を入れるか入れないかでこんなに体感が違うかと驚いて、しばらく浸かると上がって、その具体的な相談をクロちゃんにした。 とりあえず最初は朝のブリーフィングみたいなことができるようにすることからしてみたらどうかということでそれに従うことにして、僕のタスクを見たうえで、クロちゃん自身でできそうなもの、もうちょっと情報を与えてもらわないと進められないものに分けてもらって、ということをやっていった。

3時半とかになり、頭がギラギラしている感じがあるが布団に行き、常夜灯がついた薄暗い部屋にふたつの布団が敷かれていて、ひとつで遊ちゃんが眠っていた。襖を挟んで向こうは姉夫婦と甥っ子が寝ていて、姪っ子は母と一緒に寝ているはずだ。 布団に入って、寒かったのでレギンスは履いたままにした、布団は冷たく、タオルケットがなく、なんだ、タオルケットがない、と残念に思いながらくるまり、スマホの明かりを点けてうまいこと置き、本を開いた。「わかった」とクェンティンがいっていて、「あの二人の子供だな」と考えて、姪っ子と甥っ子のことを僕は考えて、そうだとクェンティンは考えた。

たぶんぼくたちは二人とも、父なのかも知れない。たぶん一度起こったことで完了したものはなに一つないんだから。たぶん一度だけ起こるということはなく、たぶん小石が沈んだあとの水面にできるさざ波のように動きつづけて広がって行き、その水溜りは次ぎの水溜りと臍の緒みたいな細い水路でつながっていて、その二つ目の水溜りを、それが水温を異にしようが、見たり聞いたり記憶したりして来たものを異にしようが、無限で不変の空を異なった色調で映そうが、そんなことにはおかまいなしに、これまでも、また今も、養っているので、小石の波紋は石の落ちるのを見もしなかった二つ目の水溜りの表面を最初と同じ間隔をおいて、大昔から変わらぬリズムに合わせて広がって行くんだから そしてさらに そうだ、ぼくたちは二人とも父なのだ。それとも父とぼくの二人ともがシュリーヴなのかも知れず、父とぼくの二人でシュリーヴを作り出したか、それともシュリーヴとぼくの二人で父を作り出したか、それともトマス・サトペンがぼくたちみんなを作り出したのかも知れない。 ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!(下)』(高橋正雄訳、講談社)p.71,72

布団はカサカサしていて、動くと音が鳴るようで、寝ている人を起こさないか心配する気持ちもありながら、姿勢に気をつけながら読み続け、珍しく30ページも進んで、サトペンとボンの関係が語られて、びっくりして、100ページになったことを記念して閉じると、明かりを消して、目を閉じた。

3月22日(日) ↓